現在、私はアメリカのテキサスで暮らしています。
しかし、日本から直接アメリカへ来たわけではありません。その前に韓国で17年間暮らし、韓国人の妻と結婚し、2人の娘が生まれました。
韓国へ行くきっかけになったのは、司法試験の予備校で、たまたま隣に座った一人の韓国人との出会いでした。
その出会いがなければ、韓国語を学ぶことも、韓国で家族を持つことも、家族4人でテキサスへ移住することもなかったかもしれません。
振り返ると、私の人生は、思いがけない出会いと不思議な縁によって動いてきたように思います。
予備校で突然「僕は韓国人ですが、どう思いますか?」
司法試験の受験勉強をしていたころ、私は予備校に通っていました。
ある日、隣に座った男性から、いきなりこう聞かれました。
「僕は韓国人ですが、どう思いますか?」
突然の質問に驚きましたが、私は素直に、
「別に差別する気持ちは全然ないよ」
と答えました。
すると、その人はものすごく喜び、その日の夕食をごちそうしてくれました。
今から考えると、なぜ彼がそこまで喜んだのか、当時の私は十分に理解していなかったかもしれません。それでも、この出来事をきっかけに、韓国という国や韓国語に興味を持つようになりました。
独学で韓国語を始め、ソウルへ
韓国に関心を持った私は、独学で韓国語の勉強を始めました。
勉強を続けるうちに、もっと深く学びたいと思うようになり、やがてソウルへ渡ることを決めました。
高麗大学の6カ月間の語学コースで韓国語を学び、当初は勉強を終えたら帰国するつもりだったと思います。
しかし、そのまま韓国で暮らすことになりました。
人生は、最初から長期的な計画を立てて、そのとおりに進むとは限りません。半年間の語学留学のつもりが、結果的には17年間の韓国生活になりました。
韓国で働き、結婚し、2人の娘が生まれた
韓国では、最初から安定した仕事があったわけではありません。
新聞配達をした時期もあり、その後はコンドミニアム販売の会社に就職しました。そして出版社に移り、翻訳とDTPの仕事を12年間続けました。
言葉や文化の違う国で生活しながら働くことは、簡単なことばかりではありませんでした。それでも、少しずつ韓国での生活基盤ができていきました。
韓国人の妻と結婚し、2人の娘にも恵まれました。
日本から韓国へ渡ったときには、まさか韓国で家庭を持ち、17年間も暮らすとは想像していませんでした。
長女の「アメリカで勉強したい」という希望
私たち家族の次の転機は、長女の一言から始まりました。
長女が「アメリカで勉強したい」と言い出したのです。
娘一人をアメリカへ送り出すことには不安がありました。そこで、家族4人でアメリカへ移住するという選択肢を考えるようになりました。
しかし、決断は簡単ではありませんでした。
私は韓国で長年続けてきた仕事がありました。出版社での仕事も続けたかったため、生活のすべてを手放してアメリカへ行くことには、かなり迷いがありました。
一度は、移住を諦めようとしたこともあります。
娘の悲しむ姿を見て、人生を変える決断をした
移住を諦めようとしたとき、娘が悲しんでいる姿を見ました。
それまで築いてきた生活を守ることも大切です。しかし、娘が望んでいる未来を、親の都合だけで閉ざしてしまってよいのだろうかとも考えました。
当時、私は会社の人間関係にも悩みを抱えていました。
それなら、この機会に思い切って新しい人生へ踏み出すのもよいのではないか。
そう考え、最終的に家族4人でアメリカへ移住することを決断しました。
今から振り返れば、長女の希望が、家族全員の人生を大きく変えるきっかけになりました。
妻の親戚を頼り、Friscoへ
妻の親戚がテキサスに住んでいたため、そのつてを頼って、私たちはDallas北部のFriscoに定着しました。
初めてテキサスの広い大地と澄み切った空を見たとき、心が解放されるような感覚がありました。
韓国では都市部で長く暮らしていたため、どこまでも広がる空と大地は、とても新鮮に感じられました。
不安を抱えながら始めたアメリカ生活でしたが、この景色を見て、「ここで新しい生活を始めるのも悪くない」と思えたことを覚えています。
「빨리빨리」の韓国との違い
韓国では、何をするにも「빨리빨리(パルリパルリ)」、つまり「早く、早く」という雰囲気がありました。
仕事でも生活でも、物事が速く進むことに慣れていました。
一方、アメリカへ来ると、人々は韓国よりものんびりしているように感じました。手続きやサービスがなかなか進まず、最初のころはもどかしく感じることもありました。
しかし、長く暮らしているうちに、アメリカのゆったりした感覚にも少しずつ慣れていきました。
韓国のスピード感にも良いところがあり、アメリカのおおらかさにも良いところがあります。それぞれの国で暮らしたからこそ、文化や時間の感覚の違いを実感できたと思います。
どこで暮らしても、家族と一緒であることが安心
日本から韓国へ渡り、韓国で家庭を持ち、さらに家族4人でアメリカへ移住しました。
国が変われば、言葉、仕事、生活習慣、住居、学校など、さまざまなことが変わります。
それでも、どこで暮らしても、家族と一緒であることが何よりも安心だと感じています。
長女一人をアメリカへ送るのではなく、家族4人で移住するという決断は大きなものでした。しかし、家族で一緒に新しい生活を始められたことは、私たちにとって良い選択だったと思います。
テキサスでも、さまざまな仕事を経験した
アメリカへ移住したからといって、すぐに生活が安定したわけではありません。
テキサスで最初に働いたのは、韓国系新聞社の営業でした。韓国で17年間暮らし、韓国語を身につけていた経験が、アメリカへ来てからも仕事につながりました。
その後は洗濯屋でも働きました。
さらに、スーパーマーケットのKrogerで、8年近く寿司ビジネスに携わりました。韓国の出版社で翻訳とDTPをしていたころとは、仕事内容も環境もまったく異なります。
日本では司法試験を目指し、韓国では新聞配達、コンドミニアム販売、出版社での翻訳とDTP、そしてアメリカでは新聞社の営業、洗濯屋、寿司ビジネスを経験しました。
国が変わるたびに、それまでの経歴がそのまま通用するとは限りません。その時々にできる仕事をしながら、家族4人の生活を築いてきました。
振り返ると、当初思い描いていた人生とはかなり違う道を歩んできました。しかし、異なる国でさまざまな仕事を経験したことも、現在の私を形作っている大切な一部だと思っています。
アメリカ生活20年の経験をブログに
アメリカへ移住してから、すでに約20年になります。
その間、車の購入や修理、TollTag、請求書、買い物、レストラン、暑さ対策など、さまざまな経験をしてきました。
そこで、長くアメリカで暮らしている方、新しく来た方、これからアメリカへ来る方に、少しでも参考になる情報を提供したいと思い、「Japanese in USA」を始めました。
このブログでは、単に制度やサービスを説明するだけでなく、私が実際に経験したことをもとに、うまくいったことも失敗したことも紹介していきます。
そして、私の人生そのものも、一つの読み物、あるいは一つのエンターテインメントとして楽しんでもらえたらと思っています。
私がテキサスへ来たことには、もう一つの物語がある
長女の希望をきっかけに、妻の親戚を頼ってテキサスへ来た私たち家族。
しかし、後になって考えると、私がテキサスへ来たことには、もう一つの不思議な意味がありました。
私が15歳のとき、父は40歳の若さで亡くなりました。
父は英語を必死に勉強し、Georgeという英語名を使い、アメリカと関わる仕事をしていました。そして、父が渡米しようとしていた場所も、実はテキサスだったのです。
父が果たせなかったテキサスへの旅を、それから30数年後、父の孫娘の「アメリカで勉強したい」という希望がつなぐことになりました。
私自身も、父の思いを受け継ぎ、アメリカではGeorgeと名乗っています。
この父と孫娘を結んだ不思議な物語については、次の記事で詳しく紹介したいと思います。



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