前回の記事では、司法試験予備校での偶然の出会いをきっかけに韓国語を学び、韓国で17年間暮らした後、家族4人でテキサスへ移住するまでを書きました。
私たちがテキサスへ来た直接のきっかけは、長女が「アメリカで勉強したい」と言い出したことでした。
妻の親戚がテキサスに住んでいたため、そのつてを頼り、Dallas北部のFriscoで新しい生活を始めました。
しかし、後から振り返ってみると、テキサスは私の家族にとって、初めて縁ができた場所ではありませんでした。
私が15歳のときに亡くなった父も、アメリカへ渡ろうとしていました。
その行き先が、テキサスだったのです。
40歳で亡くなった父
私の父は、私が15歳のとき、40歳の若さで亡くなりました。
父と過ごせた時間は、決して長くありませんでした。しかし、父の人生やアメリカに対する思いは、その後も私の中に残り続けました。
父は10代のころから、進駐軍に関係する施設で皿洗いのアルバイトをしていました。
単に働くだけではなく、そこでアメリカ人と接しながら、英語を必死に勉強したそうです。
学校や教材だけで学ぶのではなく、実際に英語が話される環境へ入り、仕事をしながら身につけていったのでしょう。
努力の結果、父の英語は非常に流暢になりました。
アメリカ人から、
「おまえは2世か?」
と聞かれるほどだったといいます。
日本で生まれ育った父が、日系2世と間違われるほど自然な英語を話していたことを思うと、相当な努力をしたのだと思います。
アメリカと関わる仕事へ
父は当初、貿易などの仕事をしていました。
その後、英語力や仕事ぶりを評価され、アメリカの土地を日本人に紹介・販売する仕事のエージェントとして、ヘッドハンティングされました。
当時の日本では、海外旅行や海外移住が現在ほど身近ではなかったはずです。その時代にアメリカの土地を扱い、自分自身もアメリカで働こうとしていた父は、かなり行動力のある人だったのだと思います。
父の戸籍上の名前は「満雄」のままでした。
しかし、仕事の名刺や家の表札には「穣司」という名前を使い、英語ではGeorgeと名乗っていました。
法律上の名前を変えたわけではありませんが、アメリカと関わる人生を歩む覚悟の表れだったのかもしれません。
父が向かおうとしていた場所はテキサスだった
父は、仕事のためにアメリカへ渡る準備を進めていました。
具体的にテキサスのどの都市へ行く予定だったのかは、今となっては分かりません。
ただ、その目的地がテキサスだったことは聞いています。
しかし、父は渡米する直前に亡くなりました。
40歳でした。
父がどのような気持ちでアメリカへ行こうとしていたのか、テキサスで何をしようとしていたのか、私は詳しく聞くことができませんでした。
父のアメリカでの人生は、始まる直前で終わってしまいました。
30数年後、孫娘が「アメリカへ行きたい」
それから30数年が経ちました。
私は韓国で暮らし、韓国人の妻と結婚し、2人の娘の父親になっていました。
そしてある日、長女が「アメリカで勉強したい」と言い出しました。
長女自身は、祖父がかつてテキサスへ行こうとしていたことを知りませんでした。
私も長女に、祖父とテキサスの関係について特別に話したことはありませんでした。
つまり、父の夢を引き継ごうとして、長女がアメリカを目指したわけではありません。
それでも、父の孫娘がアメリカで学ぶことを望み、その希望によって家族全員が動き始めたことに、不思議なものを感じます。
妻の親戚が住んでいた場所もテキサス
長女一人をアメリカへ送り出すことには不安があったため、私たちは家族4人で移住することを考えました。
そして、妻の親戚が住んでいた場所がテキサスでした。
こうして私たちは、Dallas北部のFriscoへ来ることになりました。
父が行こうとしていたテキサスの都市は分かりません。私たちがFriscoへ来たことも、父の計画とは直接関係ありません。
それでも、父がたどり着けなかったテキサスに、30数年後、息子である私と、父が会うことのなかった孫娘たちが暮らすようになりました。
偶然といえば、それまでです。
しかし、私には単なる偶然だけでは片づけられない、家族の縁のようなものが感じられます。
父が見られなかったテキサスの空
初めてテキサスの広い大地と、澄み切った空を見たとき、私は心が解放されるように感じました。
父も、この空を見ようとしていたのだろうか。
父がテキサスへ来ていたら、どのような仕事をして、どのような人生を送っていただろうか。
考えても答えは分かりません。
ただ、父が見ることのできなかった景色の中で、今、私たち家族が生活しています。
父のアメリカへの思いが、本当に孫娘へ伝わったのかは分かりません。
それでも、父が向かおうとした土地へ、父のことを詳しく知らない孫娘の一言によって家族が導かれたことに、私は深い縁を感じています。
私もGeorgeと名乗っている
父は英語でGeorgeと名乗り、名刺や家の表札には、同じ音を持つ「穣司」という名前を使っていました。
私もアメリカでは、父の思いを受け継ぐようにGeorgeと名乗っています。
父が果たせなかった夢を、私が代わりに実現したと言うつもりはありません。
私がテキサスへ来たのは、長女の希望と、妻の家族とのつながりがあったからです。
しかし、父がアメリカへ向けていた思いの続きを、私たち家族が少しだけ歩いているような気がすることがあります。
人生には、そのときには意味が分からなくても、何十年も経ってからつながって見える出来事があります。
父、私、そして娘。
三つの世代をつないだ場所が、テキサスでした。
もう一つの不思議な縁
実は、私と妻の家族には、もう一つ、アメリカを舞台にした不思議な縁があります。
かつて父の秘書をしていた女性と、韓国人である妻の姉が、シアトルで一つの空き地を挟んで暮らしていました。
当時、私たちはまだ、お互いの家族がそのような形でつながっていることを知りませんでした。
この不思議な偶然については、次の記事で紹介したいと思います。



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