第4話|26万ドルのアイスクリーム店を、私たちが買わなかった理由

2007年、テキサス州フリスコにオープンしたMarble Slab Creameryの外観 アメリカ生活

前回までの物語では、父が果たせなかったテキサスへの夢と、私たち夫婦を結んだ不思議な縁について書きました。

その夢から長い年月が過ぎた2006年10月1日、私は妻と子どもたちを連れて、ダラスに到着しました。

しかし、私たちを待っていたのは、希望に満ちた新生活だけではありませんでした。

アメリカへ着いて間もなく、頼りにしていた最初の仕事がなくなります。そして翌年、私たちは約26万ドルでアイスクリーム店を買わないかと持ちかけられました。

韓国にあった土地を売り、その資金までアメリカへ送っていた私たちは、なぜ店を買わなかったのか。

今回は、私たちの移民生活で最初に経験したビジネスについて書きます。

妻の姉の家から始まった移民生活

アメリカでの最初の住まいは、妻の姉の家でした。

自分たちの家も、安定した収入もありません。一家そろって姉の家に転がり込むような形で、私たちの移民生活は始まりました。

妻の姉の長女、つまり私たちの姪は、まだ若いうちに二人の男の子を残して亡くなっていました。

妻の姉が私たち一家をアメリカへ呼び寄せた背景には、仕事や生活の面で私たちを助けようという気持ちだけでなく、母親を亡くした孫たちを支えてほしいという思いもあったのかもしれません。

本人からはっきりそう聞いたわけではありません。しかし、今になって振り返ると、そういう意味もあったのではないかと思います。

到着早々に消えた最初の仕事

渡米した当初、私には一つの仕事が用意されているはずでした。

妻の兄がビルを購入し、私がその管理を任されるという計画です。そこで働きながら収入を得て、少しずつアメリカでの生活基盤を築いていくつもりでした。

ところが、渡米して間もなく、妻のきょうだいの間にあった問題が表面化しました。その結果、ビルを管理するという話は立ち消えになりました。

アメリカへ来たばかりなのに、最初の仕事がなくなったのです。

用意されていると思っていた足場へ降り立つつもりで海を渡りましたが、その足場は、到着早々になくなってしまいました。

次に持ち上がったアイスクリーム店の話

そんな時期に持ち上がったのが、アイスクリーム店の話でした。

亡くなった姪の夫が主体となって、フリスコにMarble Slab Creameryの店舗を始めることになったのです。もう一人の姪も事業に関わっており、私たちに店を運営してみないかと強く勧めました。

最初から私たちが店を購入したわけではありません。まず家族で実際に店を動かし、その後で事業を買い取るかどうか判断するという話でした。

まだ開店前だったため、実際にどのくらい売れるのかは誰にも分かりません。それでも、姪の夫は年間売上が約26万ドルになるのではないかと予想していました。

そして、その年間売上予想とほぼ同じ26万ドルで、事業を私たちに売るという提案をしました。

私たちにとって、26万ドルは簡単に決断できる金額ではありません。そこで、すぐには購入せず、当初は2、3か月ほど実際に店を運営し、経営状態を見る予定でした。実際には夏の開店から冬場の売上減少を経験するまで運営を続け、購入するかを検討しました。

オースティンで受けた1週間の研修

購入を正式に決める前でしたが、フランチャイズ契約を結ぶためには、私自身も所定の研修を受ける必要がありました。

そこで私は、オースティンへ行き、1週間のトレーニングに参加しました。

私にとって大変だったのは、研修がすべて英語だったことです。

渡米してまだそれほど時間がたっておらず、英語で説明を聞くだけでも簡単ではありません。分からない言葉が出てきても、研修はそのまま先へ進んでいきます。

さらに、研修の最後には試験がありました。当然、問題も回答も英語です。仕事の内容を覚えるだけでなく、英語で書かれた問題を読み、その意味を理解して答えなければなりませんでした。

苦労はしましたが、試験には何とか合格することができました。

まだ店を買うと最終決定したわけではありません。それでも私は、購入する可能性に備えて、オースティンまで行って研修を受け、英語の試験にも合格しました。

それだけ、私たちはこの事業を真剣に検討していたのです。

オープン当時のMarble Slab Creamery店内
オープン当時の店内。ショーケース、トッピング、レジなど、すべてが新しく整えられていました。

開店前に半年間の研修を受けた長女

開店に備えて、私たちの長女は別のMarble Slab店舗で約6か月間の研修を受けました。

長女が現場で身につけた知識は、後に私たち家族が店を運営するうえで、大きな頼りになります。妻も店で働きながら、アイスクリームの作り方や接客を覚えることになりました。

そして2007年6月、店がオープンしました。

長女はマネージャーに近い仕事を担当し、妻はアイスクリームを作りました。オーナー側の親戚も、開店当初は何度か店へ来て、基本的な仕事を教えてくれました。

しかし、その後の日々の運営は、ほぼ私たち家族に任されました。

分からないことがあっても、家族で考え、お客さんに対応しながら店を回していくしかありませんでした。

私たちは店を買うかどうか検討する立場でありながら、実際には自分たちの店のように働いていたのです。

ワッフルコーンを作る長女をアニメ調に描いたイメージ
ワッフルコーンを作る長女。当時の写真をもとに、本人を特定できないようアニメ調に描き直しました。

家族だけで店を回した日々

Marble Slabでは、アイスクリームを販売するだけではありません。

ワッフルコーンを店内で焼き、トッピングを準備し、注文を受け、レジを操作し、店内を清掃します。

注文が入ると、冷たい石板の上でアイスクリームと具材を混ぜ、お客さんの好みに合わせて一つずつ仕上げていきました。

長女が半年間の研修で覚えてきたことを家族で共有し、長女が中心になって店の流れを判断しながら、妻が商品を作りました。

私たちは営業を続けながら、必要な仕事を一つずつ覚えていったのです。

冷たい石板でアイスクリームを作る長女をアニメ調に描いたイメージ
冷たい石板の上でアイスクリームと具材を混ぜる長女。当時の写真をもとに、本人を特定できないよう作成したイメージです。

夏が終わると、売上も減っていった

夏の間はアイスクリームが売れました。しかし、テキサスにも冬は来ます。気温が下がるにつれて、客足も落ちていきました。

正確な帳簿上の数字は手元にありませんが、私の記憶では、冬場の売上は夏場の半分ほどになっていたと思います。

年間売上26万ドルという予想だけを聞いていたときには、季節による売上の違いまで実感できていませんでした。

実際に店を運営することで、売上と利益は同じではないことも分かってきました。売上があっても、家賃、原材料費、人件費、光熱費などを支払わなければなりません。

年間売上の予想だけでは、26万ドルという購入価格が妥当なのか判断できなかったのです。

道路の向かいで始まった工事

私たちをさらに不安にさせる出来事が起きました。

店の道路を挟んだ向かい側で、マクドナルドの建設が始まったのです。

もちろん、Marble Slabが扱う高級アイスクリームと、マクドナルドで販売される安価なアイスクリームは、価格も品質も違います。専門店として差別化できる可能性はあったと思います。

しかし、当時の私たちには、長年暮らした韓国でも、移住先のアメリカでも、事業を経営した経験がまったくありませんでした。

「道路の向かいで、もっと安いアイスクリームを買えるようになったら、この店には誰が来るのだろう」

そう考えると、怖くなりました。

すでに冬場の売上減少を目の当たりにしています。そのうえ、目の前に世界的な大手チェーンが出店しようとしていました。

約26万ドルを投じて、そのリスクを背負うだけの自信を、当時の私たちは持てませんでした。

私たちは店を買わなかった

結局、私たちは正式に事業を購入する前に、アイスクリーム店の運営から退くことを決めました。

マクドナルドが実際にどれほど売上へ影響したのかは分かりません。私たちの予想が正しかったのか、それとも、ビジネス経験がなかったために恐れすぎていたのか。今となっては確かめようがありません。

ただ、私たちは店を外から眺めただけで判断したのではありません。

オースティンまで行ってフランチャイズ研修を受け、慣れない英語の試験にも何とか合格しました。長女も別店舗で半年間の研修を受け、家族で実際に店を運営しました。

買うためにできる準備をしたうえで、最後に買わない決断をしたのです。

あのときの判断を、単純に「失敗」と呼ぶべきかどうかは、今でも分かりません。

分からないことが多いまま、家族の将来を左右する金額を投じなかった。それも一つの経営判断だったと思います。

韓国の土地を売って用意した資金

アイスクリーム店の購入を検討するにあたり、私たちは韓国に所有していた土地を売却し、その代金をアメリカへ送金していました。

すべてを店の購入に使う予定だったわけではないと思います。それでも、私たちにとっては、アメリカで新しい生活を始めるための大切な元手でした。

土地を売るということは、韓国に残してきた資産の一部を手放し、アメリカでの将来に賭けることでもありました。

最終的に店を購入しなかったため、資金は手元に残りました。

しかし、安定した収入があるわけではありません。その後はアルバイトや、韓国にいた頃から続けていた翻訳の仕事で少しの収入を得ながら、不足する生活費をその資金から補いました。

通帳の残高は少しずつ減っていきました。

「このままでは、事業を始めるためのお金までなくなってしまうのではないか」

そんな焦りが、日ごとに大きくなっていきました。

店は残らなかったが、二つのものが残った

アイスクリーム店は、私たちのものにはなりませんでした。

それでも、あの経験から二つのものが残りました。

一つは、店に投じずに残した資金です。生活費として一部を切り崩すことにはなりましたが、残ったお金は数年後、Kroger店内の寿司バービジネスを購入するための元手になります。

もう一つは、人との縁でした。

アイスクリーム店のお客さんとして知り合った一人の韓国人女性が、後に私たちをLittle Elmの寿司バーへ導くことになります。

店の購入を断念したとき、その経験は何も生まなかったように思えました。

しかし、失敗したと思っていた場所から残った「資金」と「縁」が、数年後、私たちの人生をもう一度動かすことになるのです。

その前に、私たちにはまだ、先の見えない時間を乗り越えなければなりませんでした。

私は韓国系タウン誌の広告営業に挑戦しましたが、実績を上げられず、数か月で仕事を辞めることになります。

その後、英語をほとんど話せなかった妻が、小さなクリーニングの受付店で働き始めました。朝から夕方まで店を一人で切り盛りし、やがて洋服直しの技術も身につけていきます。

次回は、仕事を失った私と、小さな店を約3年間支えた妻について書きます。

次回:第5話|英語をほとんど話せなかった妻が、小さな店を一人で支えた3年間

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