第5話|英語をほとんど話せなかった妻が、小さな店を一人で支えた3年間

クリーニングの受付カウンターと、奥にある電動の衣類コンベヤーと業務用ミシンのイラスト アメリカ生活
本文の体験談をもとにしたイメージイラストです。実際の店舗とは異なります。

アイスクリーム店を買わないと決めたあと、私たちの手元には、韓国の土地を売って用意した資金が残りました。

しかし、店を買わなかったからといって、暮らしの見通しが立ったわけではありません。

安定した収入がないまま、生活費は毎月かかります。アルバイトや、韓国にいた頃から続けていた翻訳の仕事で収入を得ながら、不足する分をその資金から補っていました。

お金が減っていくにつれて、焦りも大きくなりました。

そんなとき、知り合いの韓国人から紹介されたのが、韓国系のタウン誌の仕事でした。

韓国語は話せても、広告は取れなかった

そのタウン誌は、広告費で運営されている無料の情報誌でした。

韓国人の社長の下で、私は日本食レストランを訪ね、広告を出してもらう営業を担当しました。

韓国で長く暮らした私には、韓国語を話せるという強みがありました。訪問先では、日本人なのに韓国語が流ちょうなことに驚かれました。

しかし、驚いてもらうことと、広告を出してもらうことは別でした。

なかなか契約につながらず、実績を上げられませんでした。

数か月たった頃、社長から、実績が出ていないことを理由に、この仕事には向いていないと言われました。

自分でも営業には自信がなかったので、その言葉には納得しました。広告で成り立っている会社にとって、広告を取れなければ困るのも分かります。

それでも、仕事を辞めて収入がなくなると、次に何をすればよいのか分からなくなりました。

目の前が真っ暗になるような気持ちでした。

妻が任された小さな受付店

その後、妻がクリーニング店のピックアップステーションで雇ってもらえることになりました。

ピックアップステーションとは、洗濯物を預かり、仕上がった品物をお客さんへ返す受付専門の店です。洗濯やプレスは本店で行い、そこから仕上がった衣類が運ばれてきます。

妻は、その小さな店を一人で任されました。

当時、妻は英語をほとんど話せませんでした。それでも、お客さんは洗濯物を持ってやって来ます。受け付けから引き渡し、会計まで、目の前の仕事に対応しなければなりません。

朝から夕方まで、土曜日も含めて週6日。妻は約3年間、この店で働きました。

洗濯物を預かり、整理し、手渡す毎日

朝、お客さんが洗濯物を持ってくると、受け付けをして、チケットをプリントアウトします。

昼過ぎには、本店から仕上がった洗濯物が届きました。妻はそれを整理してラックにかけ、パソコンに入力していきます。

夕方、お客さんが受け取りに来たら、パソコンで該当する品物を調べ、ラックから取り出して、会計を済ませます。

預かる。整理する。探し出す。手渡す。

妻は、その一連の仕事を一人で担っていました。

英語をほとんど話せない状態で始めた仕事でも、毎日の業務は待ってくれません。妻は店に立ちながら、必要な仕事を覚えていきました。

店のすぐ隣には、サンドイッチ店のサブウェイがありました。そこから漂ってくるパンを焼くにおいが、苦痛だったことも記憶に残っています。

仕事の手順だけでなく、そんなにおいまで、この店で過ごした日々と結びついています。

受付の合間に、洋服直しを覚えた

仕事に少し余裕ができてから、妻は洋服の寸法直しを習い始めました。

教えてくれたのは、洋服直しの経験が豊富な韓国人の友人でした。アメリカでは「オルタレーション」と呼ばれる仕事です。

妻は教わりながら、受付の仕事の合間に洋服を直すようになりました。

使っていたのは、足元のペダルを踏んで動かす業務用の電動ミシンでした。

よく頼まれた仕事の一つが、ジーンズの裾上げです。

裾を切って縫い直す方法もあれば、元の裾のステッチを残して短くする方法もありました。同じ裾上げでも、仕上げ方は一つではありません。

やがて妻は、ドレスの寸法直しまで手がけるようになりました。

最初は、クリーニングの受付をするために入った店でした。そこで働くうちに、衣類を預かって返すだけでなく、自分の手で直すこともできるようになっていったのです。

経営不振で、受付店が閉まることに

約3年間働いた頃、クリーニング店の経営が厳しくなりました。

オーナーは本店だけを残し、妻が働いていたピックアップステーションを閉めることになったのです。

妻の仕事ぶりが理由ではありません。働く場所そのものがなくなることになりました。

オーナーとは家族ぐるみの付き合いをしていたので、閉店の話をするときも、とても申し訳なさそうにしていました。

妻は、仕方がないと受け止めているように見えました。

その頃には、私が別のクリーニング店で働いていました。そのため、家計にとって、すぐに大きな打撃にはなりませんでした。

それでも、妻が約3年間通い、一人で仕事を担ってきた店が閉まることになりました。受付の合間にミシンに向かい、洋服直しを覚えた場所でもありました。

小さな店で積み重ねたもの

アメリカへ来た頃、私たちは事業を始めることを考えていました。

ところが、予定していた仕事はなくなり、アイスクリーム店の購入も見送りました。私が次に挑戦した広告営業も、長くは続きませんでした。

その後、妻はクリーニングの受付店で働き、私も翻訳やほかの仕事をしながら、暮らしをつないでいきました。

妻がこの店で過ごした約3年間には、大きな転機になるような出来事ばかりがあったわけではありません。

洗濯物を受け取り、仕上がった衣類を整理し、お客さんへ返す。その合間に友人から洋服直しを習い、できる仕事を増やしていきました。

振り返ると、それは私たちがアメリカで暮らし続けるための土台を、少しずつ作っていた時間だったと思います。

求人広告で見つけた、寿司バーの仕事

クリーニングの受付店が閉まったあと、妻は韓国系タウン誌の求人広告から、次の仕事を自分で見つけてきました。

それが、Krogerの店内にある寿司バーの仕事でした。まず妻がそこで働き始めたことが、後に私たちが寿司バーの事業を買うきっかけになります。

次回は、妻が寿司バーで働き始めたことから事業の購入へ進み、私が従業員から寿司作りを教わるまでを書きます。

続きはこちら:第6話|寿司バーを買った私が、従業員から寿司を学ぶまで

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前の話:第4話|26万ドルのアイスクリーム店を、私たちが買わなかった理由

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